昭和48年04月09日 朝の御理解
御理解 第8節
「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
無信心者程神は可愛いと。神様は如何に可愛いと、例えばおぼし召しましても、信心なければおかげが受けられないと言う事が分かります。信心しておかげを受けて呉れよと仰っておられますから、これは情の点では、成程可愛いもんじゃ、可愛いとこう言うても、どうにもしてやることが出来ない。それはもう人間でも同じ事。白痴の子どもがおりますと、親としてはその不びんはいよいよ増します。
けれどもその白痴であるその子供にどうしてやる事も出来ない。只撫でたりさすったりならしてやれましょう。特別に生活なら生活が出来る様に親がおって何時も見てやると言う事は出来ましょう。けれども、その白痴そのものはどうにも出来ません。如何に可愛いと親が手を伸ばしても、それはもう致し方がないのです。可愛いという情は募るのです。これは情の点に於いてはそうです。
ですから、私共がいかに、例えば難儀をしておるとか、いろんな悩み苦しんで居るから、神様がそういう氏子に手を差し伸べて下さって、そして金が無いなら金をやろう、不健康であるなら健康をやろうと云うて下さり思うて下さる情は、強く感じられるでしょう。 けれども、そんなら氏子が信心をする気にならなければどうにも出来ないというのが、神様と私共との関係だと思うのです。
信心しておかげを受けて呉れよと仰る。だからここの御理解のところは、その様な風に、例えば人情ですか、を持って頂かれると同時に又屑の子と。昨日私、御本部で買わせて頂きました河村という先生が書いておられる、河村先生が自分で、いわゆる屑の子と言う様に自分自身の事を屑の子とこう言うておられる。「有難や、この世の中も身の内御親の神の宮と思えば、屑の子。」と、ですから、例えばこれを私はちょっと読ませて頂いて、これは素晴らしい本だなとこう思うた。
というのは、二つの世界と言う事を、書いておられる。それは世界にいろいろ有るはずはないのですけれども、自分が感ずる世界、いうならば信心の無かった世界と、信心を頂いてからの世界のことを、二つの世界とこういう。だからこれは素晴らしいことが、書いてあるだろうと、こう実は思ったんですけれども、だんだん読んでいきよる内に、あんまり大した事はないなと、今はこう感じておる。最後迄読んだら素晴らしいなと、又思うかも分からん。
只その二つの世界と言う事についてのその説明だけは、私は素晴らしいなとこう思ったです。お互い信心させて頂く様になってです、の世界と、信心を頂く前の世界というのが、はっきり区別がつく様になっただろうか。成程おかげは頂いた。だからおかげとかいう、そういうものじゃない、例えば信心の無かった世界の物の見方、考え方というものと、信心を頂いてからの物の見方、考え方。
だから私昨日、もうそれを読ませて頂いて、段々又深い広い事を話しておられるに違いないと思うのですけれども、現在私が頂いたところでは、例えば信心をさせて頂いておる、例えば仲が悪くなった人がある。ところがたまたま風呂へ行って出会った。それで教を仲良うせにゃいけんと言う事を聞いとったから、その人をつかまえて、どうぞ貴方の背中を流させて下さいというた。そんなこつ言うなら気色の悪かですねえ。喧嘩したばっかりのつに、風呂場で丁度合うたと。
ああたの背中を流させて下さいと言うて無理やり流されて、向こうもそんならそのお返しに流して、そして仲良うなったと。例えば合楽で言うておる和というものとは大変、いうなら見地というかねえ、その見方というのが違う。それはそう言う事から仲直りをしていくと、いうなら本当に人間的です。神様のおかげを頂くと言う事はそんな事じゃないと私は思うのですけれどもね。
と言う様なところを、今私読んでるんですから大したことないなとこう思った。けども先に段々違わん、深いことが説明されてあるのでしょう。一番初めの二つの世界を感じられておる位ですから、しかも自分の事を屑の子と自覚しておられるのですから。ですけれども、この二つの世界と言う事については、私は信心しておっても、まあだ信心の無かった世界と同じ思い方をしておる人が有りはせんでしょうか。
その事は私昨日、これは大体どういう風に言うたが一番分かりやすいだろうかと思わせて頂いたら、信心する者は肉眼を置いて心眼を開けとこう仰る。だから肉眼の世界と、心眼の世界と言うことの方が一番適当の様です。一つの難儀な問題がありましても、信心の無かった時には、それは本当に難儀な問題と見ておったものがです、信心をさせて頂いて分からせて頂くことは。それは難儀ではなくて神愛であるという見方。だからもう感じ方が全然違うてくる。
だから私共は何処までも、いわゆる肉眼の世界から心眼の世界、心で見る世界に変わって行かなければならんのです。そこで今日の御理解に戻りますならば、情的にいうて、例えば難儀な子供が有れば、その難儀な子供に対してです、そんなら子供が貧乏しておると親は貧乏しておるその子供に幾らでも金を余計にやりたい。けれどもそれは何処までも凡情ですから、やってもやってもやっぱり貧乏しておる。
憎まれっ子、世にはばかるで、むしろ冷淡に扱う子供の方が、お金儲けの方も上手だし、お金も儲っていくと言った様な、結果にしかなりません。ですから神様が、そんな凡情使いなさる筈はないです。ですから問題は信心して、おかげを受けて呉れよというのが神様の切なる願いである。どうぞ信心しておかげを受けて呉れよ。そこでそんなら信心させて頂く様になると、何が分かって來るかというと、屑の子の自覚、自分という者がいよいよ分かって來る。
本当に自分の様な者に神様はかく迄おかげ下さってと、自分の様な者、自分の様な屑の子に神様の足手まといにしかならん自分であるという自覚からです、いよいよ信心を手篤うしていくという。大体はそういう自覚に立っての私は信心が本当の屑の子と言う事じゃなかろうかとこう思う。自分がいよいよ分かって來る。私の様な人間、私のような屑の子はまたとあるまいと思われる。
そういう信心が分かるから、いわゆるそういう信心をさせて頂くからおかげが受けられる、人が悪いのであって自分はひとつも悪くないと言う様な考え方からは、おかげが受けられないと言う事が分かる。信心しておかげを受ける。お互い段々屑の子の自覚が出来てきよるだろうか。本当に屑の子の自覚が出来れば出来る程、金光様の御信心でいう、いわゆる実意丁寧にならざるをえない。
これも昨日御本部から頂いて参りました御本で、今の教主様の私は何時も思うのですけれども、もう大変なことだなと思う事はもう沢山のお詠をおつくりになっておられます。こういう御本がもう四冊目が出来とる。是を教会に全部お下がり頂いている訳です、これはもう教主様の御教えだと思うくらいです。素晴らしい。その中を少し読ませて頂いて、こう言う様なお詠が有るのです。
「自らが 秩序乱すに 健康の崩るるは 正に当り前の事。」という詠が有ります。私は先日、或有名な信者さんの所で大変な損害を受けられた火事があった。その御信者さんは、それをどう頂いておられるかというと、みんなが例えば、それをおかげと頂いておられる。「いやあ、それはおかげ」と、成程もうギリギリのところはおかげです。やはり、火事で焼けても水に流されても、信心が焼けてもおらなければ流れても焼けてもいないと言う事は大したもんだと思うです。
けれどもこれには、ひとつも反省がないですね。本当に神様相済みません、これだけのもの灰にして仕舞って、相済まんことでしたという、そのお詫びの姿勢が出来て、そしてそれをまたおかげであったと分からせて頂く。この二つの面が信心にはなからねばいけない様ですね。教主様御自身、自分で体がお悪い。これは自分が秩序を乱したから正にこんなに病気をするのは、もう当り前だとして頂いておられる。これが私は謙虚な心。いわゆる屑の子の自覚だと思うです。
だから信心には、そういう面がなからにゃいけんのです。困ったことが起こった。はあおかげおかげと、成程おかげです。けれどもその困ったことの元と云うものは、私が秩序を乱したからだと、天地の道理を分かりながら、天地の道理に合わない様な事をしたからだという自覚。そこに屑の子の自覚と言う様なものが感じられる。 そしてそれも又神愛である、おかげであるという二つの頂方。
例えば、そんならそういう火事に合った時に、本当に私の信心が到りませんからお気付を頂いたという頂方。と同時にです、しかしこれもまた、おかげの元だという神愛の表れであるというて、その時点からおかげと言う事にならなければならんのです。次にね、「いとまなき身と人の言う、この吾の心にいとまあらしめ給え」というお詠が有ります。私は今度の御本部参拝で金光様のお引けを拝ませて頂いて、何かもう大変もう、お疲れになっておるという感じを受けました。
御表情から態度から、もう生身を持っておられる。本当にいわゆる人間教主様をそこに感じました。そうであろう、朝の三時過ぎから、そして夕方の五時近く迄御大祭を終えられて、そしてお届けに参りましたら、もう御結界についておられる。厳しいこと、お疲れの事であろうと思う。だから皆さんが本当に金光様お忙しいことであられますと言われる様に忙しい自分だからというてです、心に暇が無い様ではならないと精進しておられる。心は豊でありたい。
体は忙しいけれども心にはゆとりを持ちたい持ちたいと願っておられる人間教主様の、これは神様へ向けられる信心の精進のお姿だとこう思うですね。次にはね「言いし後、言わでよかりし事なりと、悔やむ自分を吾と哀れむ」という、例えば言わんでよい事を言うたと、反省しておられる姿ですね。あれはあんな事言わんでも良かったのにと、自分をこう非常に責めておられる。自分を吾と哀れむという風に詠んでおられる。
こういう鋭いやはり自覚、そういう中にもやはり屑の子としての自覚というものを持っておいでられる事が分かります。もう本当に沢山な人から拝まれる程しの御内容でもあり、又御修行が出来ておられる教主様が、それでありますから私共の信心がいかにあらなければならないかという信心の姿勢を御自身の体験からお詠にこの様に表しておられるとこう思うのです。自分と言う事がいよいよ分かると言う事。そこには分かれば分かる程私の様な者がと言う事になるのです。
屑の子の自覚が出来て來る、そういう信心しておかげを受けて呉れよと言う事は、だから信心して自分を分かって呉れよと言う様な頂き方が一番間違い無い様です。そういう頂方の上にです、頭を低うしておるところへ、いわば高いところから低いところに水の流れと言った様なものが、低い方へしか流れて行かないというおかげが頂かれると思うですね。人情でいう、例えば屑の子。それは例えば難儀をしておると、だから難儀をしておる者に神様はおかげをどんどん下さると言う事では決してない。
だからそういう難儀をしておるならしておる程にです、信心しておかげを受けて呉れよと仰っておられる。そんなら信心をさせて頂く様になると、どういう事かというと、いよいよ自分が見えて來る、いよいよ自分が分かって來る。そしてそこに屑の子の自覚が生まれてくる。そこから教主様のお詠を三つ挙げて申しました様に、この様ないわば尊い信心の姿勢というものが出来て來る。そういう私は姿勢の上にです、おかげが限りなく頂けて來るというのがこの御理解八節だと思うのです。
どうぞ。